宮城の大高です。 実に懐かしいです。お元気のようで何より。 ブログへの転載、OKです。
昨日(15日)も石巻にボランティアで復旧活動を行ってきました。
ある個人宅の床下の泥上げです。作業しやすいように床材をまず壊して、それから約2センチくらいの層になっている
ヘドロを麻袋に詰めて運び出す作業です。 アスファルトの柔らかくなったのを想像してもらえばよいです。
津波の押し寄せたところはどこもヘドロの置き土産があります。放置しておくとカビが生えたり、有害物質が発生するようです。津波はきれいな海水ではなく真っ黒な濁流なのです。
震災後2ヶ月経っても一向に片付かないがれき、民家に突き刺さったままの車、あるはずのないところにある漁船。宮城の27年分の廃棄物が一気に吹き出してしまって、手はつけているが気の遠くなるような量です。
町にはボランティアの若者があふれていました。私は全労連関係のグループで活動しましたが、他に無数の団体が入っていて、それぞれに腕章やゼッケンなどつけて活動していました。この若者たちとともに未来を切り開いて行こうという思いが体中に広がったような気がします。
前山 研一郎さんに寄せられたメールを転載します。
大高 誠さんは、私の同窓で、同じ秋田県出身です。 心配をしていました。(三浦)
宮城の大高です。
お見舞いありがとうございます。
古川は震度6強(3.11、4.7)で古い建物はかなり被害がありました。
幸い私の家は本や食器が壊れ落ちたくらいで建物にはそれほど被害はありませんでした。 地震保険の調査で「一部損壊」ということです。保険金額の5%が給 付されました。
4月上旬に全障研に送ったメールです。その頃の私の思いです。
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震災から早一月が経ちました。停電が解消し(10日後くらい) 震災後初めてテレビを見た時に、津波はこんな映像で報道されていたんだと思い知らされました。 それまで新聞で写真は見ていましたが、映像で見たときのショックは私の写真からの想像を遥かに超えていました。これが津波なのかと。
気仙沼、石巻の知り合いの安否が気になりましたが、携帯電話をかけるまで躊躇しました。一刻も早く安否を確認したいという思いともしやという思いとが交錯して 携帯のボタンを押す指先が震えていました。電話はつながりました。電話の向こうに友の声がありました。無事でした。家は流されていました。学校で勤務の最中、2キロの道を必死に駆け上って逃げたそうです。車は流されました。すべてが流されて涙一粒も出ないと話していました。
秋田の甥っ子から電話が来ました。私が 無事でいることに感激していました。人が生きていること自体に素直に感動せずにいられない、そんな状況でした。3週間後、ようやくガソリン事情が通常に戻った ので被災地に行きました。 自分の思い出の中の沿岸部の浜の様子を直に見てみたいという思いにかられて支援でもなくボランティアでもなく、とにかく行ってみたかったのです。石巻、女川、 志津川(南三陸)。一体、何が起きるとこのような事態になってしまうのか、どんな力がこれほどまでに破壊し尽くすのか、これほどの自然のパワーってあるのか、私には想像ができませんでした。「津波」のイメージと目の前のがれきの山の現実がつながらないのでした。自分の目線より遥かに高いところまで襲ってきた津波の黒い水の固まりを想像できませんでした。何人の人がその黒い水の固まりに飲まれたことか、いまだ実数がつかめていません。そこに生きていた根拠がすっかり失われてしまいました。記録も流失しました。それを記憶していたであろう隣人もいないかもしれません。生きていたことも死も記録されずにこの世から消えてしまったかもしれません。
「がんばれ!」って頑張っていない人に向ける言葉です。もっとできるはずだと。或いはもっと伸びるという期待を込めた励ましです。しかし、被災地の人にガンバレ! はむごい言葉です。私たちは一日も早い復興を願って静かにできることをやるしかありません。
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沿岸部の地盤沈下と福島の原発被害は将来への夢を打ち砕いています。これまで生きてきた土地での復興、再生ができるのかどうか、どの地で頑張ればよいのか、今のところ希望の地を見いだせていないのが現状です。震災失業もあふれています。とりあえずの失業保険で食いつなぐとしても、それは最長2年のことで、その先は何も見えていません。明日は石巻で支援活動をします。「何かした い、自分に何ができるか」そんな思いで日々暮らしています。 大高 誠